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「スパイの妻」評 映画はその軽さによって何もかも許されるのだ!

 鑑賞作品:スパイの妻 Wife of a Spy / 黒沢清 Kiyoshi Kurosawa

 

 軽さと重さが同居する感覚が、黒沢清映画独特の感覚だ。

 スパイ物、ラブロマンス物、駆け落ち物というジャンルを横断していく軽やかさ。一方、731部隊。戦後日本が抱える永遠の加害性という果てしない重み。黒沢清の画面が醸し出すさっぱりした印象はその重たいテーマと相反するように見えるだろう。映画とはそういうものではなかったか!ナチスがあらゆる映画にいまだに悪の象徴として軽々と登場し続けてるように、映画はその軽さによって何もかも許されるのだ!

と、言いたくなってしまうような映画こそ私たちは目撃したい。


 そして、軽さは物語だ。映画が物語という記号を全面に押し出した時、人はその軽やかさに時に憤り、時に開放されてきた。

 「スパイの妻」のラストの一連の流れは周到に準備された開放だ。中盤に用意された、サトコが受ける取り調べの「お見事!」な「映画が完全に物語を乗っ取る」シークエンス。「映画が完全に物語を乗っ取る」という言葉通り映画の中で映画が流れる。9ミリ半のメロドラマが「スパイの妻」という映画を乗っ取ってしまう。そして、「愛する彼と秘密を共有しアメリカで駆け落ちする」というサトコの物語も、その垂れ流されるユウサクの監督したメロドラマによって乗っ取られてしまうのだ。

 そして同時に、東出演じる憲兵ヤスハルの「サトコは売国奴ユウサクの協力者なのだ!」という物語も乗っ取られてしまう。

 

 恐ろしいことに、ヤスハルのこの視点は観客の視点と一致する。

サトコの視点はユウサクの発するメッセージを受け取ろうという視点だ。だから彼女は高笑いを始め「お見事!」と憲兵たちの眼の前で狂ってみせた。

 だか、ヤスコが狂ってみせたとき、ヤスハルと観客があの9ミリ半のメロドラマを見つめる視点は戸惑いでしかない。第三者として状況を把握してる観客の視点は、ヤスハルよりいくらか状況を理解してはいるが、サトコほど完璧に理解してはいない。直後に待ち受けている「ユウサクが船から手を振り港を離れていくカット」がヤスハルと観客の感情を分ける。ヤスハルはあのカットを見ていない。観客の眼前とサトコの脳内だけで流れるカットだ。サトコの脳内を覗き見ることで観客はやっと狂ってみせた彼女の感覚と同期するのである。まさに映画が物語を乗っ取る渾身のワンカットだと思った。


 そして、中盤に用意された「映画が物語を乗っ取る」というカタルシスをラストにもう一度ひっくり返す一連のシークエンス!映画に対する物語の復讐!

 笹野高史演じるノザキが精神病院に唐突な侵入者としてやってくる。そこで彼がサトコに伝えるのは「ユウサクがインドで目撃されたらしい」「ユウサクの乗った船が沈没したっぽいよ」というような噂話だけである。噂話は物語だ。ノザキがあのシークエンスで唐突に登場し果たした役割は、「噂話=物語を映画に流し込む」という役割だったのではないか。現にノザキが去ってすぐ、神戸には爆弾が降り注ぐ。サトコとユウサクの物語を何もかもチャラにしてしまう爆弾。そして、ヤスハルを支えていた国家という大きな物語すら爆弾が吹き飛ばしてしまった。

 そして、サトコは焼け野原で途方にくれる。途方にくれて、なにもない限りなく夜に近い夕方の砂浜で叫び泣く。

 物語を流し込まれて焼き払われた映像は真っ黒に支配されて物語だけが取り残される。


「一九四五年 八月 終戦

翌年、福原優作の死亡が確認された。

その死亡報告書には偽造の形跡があった。

数年後、福原聡子はアメリカに旅立った。」


 という4つのシンプルなセンテンスだけが真っ黒な画面に取り残されて映画は終わる。「センテンス」という「純粋な意味」だけが「物語」だけをグッと推し進めて軽々と観客を連れて行ってしまう。映画は置き去りだ。

 観客が辿り着いた先は、優作と聡子が見つめるボストンの摩天楼だと信じることにしよう。


※サトコが狂ってみせた「お見事!」の一連のシークエンスは全然中盤ではありませんでした。おそらく「物語的な時間の流れの中筆者の間抜けな勘違いです。筆者が「映画を物語に乗っ取られる」という経験をした一つの証左として修正せずそのままにします。お許しください。


                                     山口健太


鑑賞作品

タイトル:スパイの妻(2020)

作家:黒沢清

Title : Wife of a Spy (2020)

Film by Kiyoshi Kurosawa

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